昭和44年06月30日 大祓式



 さみだれ降りしきる中に、今年の大祓式と申しておりました。めぐって悪病予防、交通安全大祈願祭が、ただ今無事に終了させて頂きました訳でございます。段々お互い信心を進めさせて頂くということが、限りないおかげに浴して行くということでございますけれども。御神訓に用心せよ心の鬼が我が身を責めるぞと。用心せよ心の鬼が我が身を責める。それはどう言う様な事かと、我が身を責める。我が身を責め嘖むだけならいいのですけれども、その心の鬼が我が身を責めるだけではなくてです。
 運命までも悪くして行ってしまうのです。本当の苦しみを呼ぶ事になるのです。用心せよ心の鬼が我が身を責める。良心の呵責に責めさいなまされるとこう申します。どうもこの頃無信心になっておるから、どうも何か起こらせんだろうか。何か起こらせんだろうかとこう思うね。そういう心が例えば難儀な事困った事を呼ぶわけでございます。ですから例えば大祓式でもそうですよね。その大祓を受けさせて頂いて、まぁ身も心も又は自動車なら自動車のお祓いを受けさせて頂いて。
 それは何とは無しに自分の心の中に、今年もおかげが受けられるぞという心。その今年もおかげを受けられるぞと思うその心が、おかげを受けるのです。もちろんそれだけではありません。そういう自分の心と同時に、神様のお働きというものが相まって、おかげを生んでいくのです。神様だけでもお出来にならない。又は私共だけ実を言うたら出来られるですね、やっぱり神様は全知全能と仰るくらいですけれどもですね、それではねあまりに人間氏子の幸せに遠いものになって来るのです。
 そこであいよかけよ。私共も精進させてもらい、神様もおかげを下さる事に喜びをもっておかげを下さる。ただ私共が一方的に、ただ大祓を受ければおかげになる。ただお願いをしておけばそれで良いというのであっては、それは神様だけがお働きであって、私共が何にも働かん事になる。それでは私共の向上というものがない分けなんです。ですからそこんところは、その神様の方が氏子あっての神。神あっての氏子とこう私共に呼びかけて下さるということですね。
 いかに私共がです例えば機嫌取ってからでも、ひとつ幸せになろうと、氏子と神様が一緒に幸せに、いわゆる信心共栄のおかげを受けよう受けさせようという、その願いがそういうことになって来るのです。私はそういうことをもう一番はっきり頂いており、現れておるのが合楽の大祓式だと思うのです。いわゆるまぁ大祓式ひとつの。いわゆる交通安全、悪病予防の大祈願祭だとこう思う。ここが教会になりましてから、始まりましたお祭りでございますね。以前は全教的にこれがあっておったんですけれども。
 大祓式というのはどうも御道の信心振りには添わないというので、大祓式が無くなりました。それでまぁ銘々の地方の教会では、長年大祓式があっておりますから、名称を変えて半年のお礼とかお詫びのお祭りとか、そこの教会教会の行き方によって、そのスタイルが違う訳です。お祭りの。でここでは私は悪病予防、交通安全ね、世の中で怖い物は、地震、雷、火事、おやじというて昔。ところがこの頃は誰ぁれもおやじが怖いという者が段々少なくなりましてね。
 その代わり今度は交通事故という怖いものが、それこそ雷さんよりも怖くなって来た。怖い物がひとつ増えた訳じゃあないですね、おやじが段々軽く見られるようになって、おやじが怖くなくなって来た。そして怖いものはもう一歩外に出れば、交通戦争と言われるような、災難が頻繁として福岡からここへ参りますと、一台か二台必ず引っ繰り返っているというくらいにですね、あっておるわけです。怖い事なんです。ですからそういう災難から逃れたい、そういう願いは誰しもが持っておる。
 または夏に恐ろしい、色々な流行してまいります悪病ということにおいても、誰でも夏になりますとそのために用心致します。ですからそういう災難難儀から逃れる事が出来るならばです。おかげを頂きたいというところから大祓式がある。ただこうしてお祭りを仕えて、そしてぬさでこうこうして祓うてもろうた。祓うてもろうただけで例えばどのくらいの効果があるか、しかしたいした事は無い。甘木の初代の親先生にある先生が、だいたい大祓式に祓うてもろうたら、あれは効果があるのでしょうかと尋ねた。
 うん「そりゃ祓わんより良かな」と仰ったそうです。ところがですね神様の一握りとね、氏子の一握りが違うようにね、神様の祓わんより良かなと仰る事は、大変な事なんですよ実を言うたら。祓わんより良いということはもう大変な事。それをいかに如実にここの場合は、ここで初めて大祓式が行われた年の事を、ひとつ思い起こして下さればいいのですよ。あの年は千台からの車を私は祓わせて頂いた。無論あのう祓つものと共にでございます。ところがその年はもう全然無事故という奇跡が起こったんですね。
 神様がね祓わんよりも良いと言うて下さる事は、それくらいに効果がある訳なんですよ実を言うたら。そして去年今日迄丸一年間、なら合楽で大祓を受けた方達が、どのようになっておるかというと、それこそ十の指でも足らんくらいいろんな事故があった。けれども致命的なことは無かったですね。おかげを受けておるからもう帰りがけから、もう事故に遭うておる。事故に遭うておるというか、やっぱりスピード違反で捕まっておる。私は去年確かに言うた。
 私がお祓いあのうこうしてさして頂いたらおかげを頂くけれどもね、例えば神様の教えに背いたり違反したり、人間の決めた例えば掟でもです、それを無視する様な事があったら私は知らんよと私は言うた。スピード出して行きよるもんじゃけん、ちゃんともう帰りがけに捕まっておる。それでもやっぱりおかげを受けてからですね。それをうやむやの中に、おかげを受けておるという事実はあります。と言う様に事故はありましたけれどもですね、まぁ致命的な事故も無しに、段々おかげを頂いてまいりましたが。
 これはなら合楽で大祓を受けても、こりゃ無事故という訳にはいけん事が分かって参りました。あの一番初めの年のここでの御教えのテーマとでも申しますかね、お歌を頂きました。そのお歌をちょっと失念しましたけれども、とにかくあの祓えつのあのぬさでの祓うた神風にです、もうそれこそ曇り気のもう陰も無いように、お粗末御無礼を祓うということでしたですね。本当に祓うて下さった。甘木の親先生が仰った。祓わんよりよかなと言うのはその事なんです。
 そこから今度は一年間、そんなら去年の今日ここでどういう言う事をここで頂いたかというとですね。「今あるを嬉しといやびまつらなば、家に不幸の起こる事なし」。と言う御教えを頂きました。私その朝頂いた。はぁこれは今年の大祓式のお祭りの、まぁ要点になる所だということでございました。「今あるを嬉しといやびまつらなば、家に不幸の起こる事なし」。なるほどこれならば起こる事はなかろうとね。今日ただ今私がある、いや目が覚めてということが有り難いんだと。例えば頭が痛い風を引いた。
 咳が出るこう言うても、これはお生かしのおかげを頂いておるからこそ熱が出るのである。これがも冷とうなっていたらもう明日は火葬場行きだ思うたら、思う程おかげを受けておるなぁと、自動車に乗る前にいちいち神様有り難うございますと、勿体無い自動車に乗せて頂きますと、ハンドルを握りながらその今あるを嬉しといやびまつらなば、不幸の起こる事は無いのですけれども。そこに慌てましたり不平不足を思うたり、それとは似ても似つかね心で運転しておるところに、私は事故が起こって来ると思うのです。
 災難を避けられない事になっておると思うのです。そこで例えば一年の間に私共に神様が求め給うて下さっておる事はです、だからね。全然初心で分からない人、例えば今日でも全然ここに参って来た事の無い人がです、一番初めの年からずうっとお願いして、合楽の金光様にお願いさせて頂いとりゃあ、例えば今日の総代さんの熊谷さんなんかは、もう沢山しこう受け持って来ておられる。こうしてあなたにお願いさせてもらっておれば、無事故で皆んなおかげを頂いておるから。
 もうとにかくお願いしますと言うて、全部熊谷さんの所が配られただけは皆んな持って来てある。全然信心の無い人がだからそういう人達の上にも、おかげを頂いてある。何も分からんのですから。例えば雲霧も無いのですから、おかげを頂いてあるのですけれども、むしろ分かっている者、もう分かり過ぎるくらいに分かっている者。いやおかげを嫌が上にも、またおかげを頂かなければならない、信心も進めていかなければならない、信心の有る者は、こうもあらなければならない。
 こうもしなければならない事が分かっておる者が、それを疎かにしておるところにやはりお気付けがある。私は思うのですね。私共がいよいよですそのいやびまつる心、お礼を申し上げる心ね、神恩報謝の心をもって、何時もおかげを頂いときゃいいのですけれども、どっこいなかなか何時もかつも喜びに浸っておるようなわけにはまいりません。いやむしろ喜びではない反対になった時の方が多いくらいでございます。神様の御守護があっておる。あっておるけれども。
 こちらはその御守護から外れるような心掛けになっておる。それから漏れるその時期がやっぱりあるようですよ。さっと言う訳にはいかん。私は二、三日前にもう晩でした、お便所へ行っておりました。気持ち良くかがんどったら、それこそ異様な音が目の前にするんです。はっとと思うたんです。それこそどこから侵入したか分からないですけれどもです、私の一番嫌いなどこからぼてっと落ちて来た。どっから入って来たか分からん。私はこうしながらもうほんの事びっくりしましたよ。
 皆さんは笑いなさるですが私にとっては怖いのです。もう他の事は怖い事は無いが、これだけは今でも怖い。これくらいなようと見よったらこわいらしかですもう。こん位ばかりばっかりの青蛙です。本当にもうどこから侵入して来たかと思うです。そのぼてっいうの落てた音から違うとりました。異様なその音でしたよ。見たら目の前にですねひき蛙がちゃとおるんです。けれどもほらここで慌てちゃあいかんと思うたから、私はジーッとそれを眺めっよった。
 いわゆるそのうもう昔ならすぐ出てたんでしょうけれどもね、この頃度胸が大分出来ておる、ジーッとまぁ心行くまでその用を足させて頂きながらね、その青蛙の生態をこう眺めさせて頂いた。見れば見る程こえらしかった。どうしてこげなもんが私は怖いんじゃろうかと、自分で思うくらいです可愛らしいですよ。口が広うしてですね。こうやった具合がなかなかそれこそあのう、やはりあのう東京当たりはひき蛙が一匹五十円する。あれはもうこう観賞用に飼うておるくらいに可愛らしいんですよね。
 それを私はジッとこのそのいわゆる生態をですね、見させて頂いております内にです、その青蛙が段々段々白うなっていくんです。前の白い壁にこう保護色なんですか、だから白い所に来たから、その場で神様から白うしてしまわれる訳にはいかん。やはりその時間が掛る訳です。だからもし私が蛙であったらパッとその場に、パッと呑んだに違いないです。けれどもそこんところがです、例えば白い壁と同んなじ様な色になれば、それで保護を受ける事が出来る。天地の親神様というお方はねそういう虫けらに至るまで。
 小動物の上にまでそういう方法を下さる神様なのですから。人間万物の霊長である私共の上にです、保護を下さらない筈がない。しかもそして氏子信心しておかげを受けてくれよ。真実のおかげを願うて下さっておる。真実のおかげを言うのは例えばなら火事に遭わんようにとか、大水に遭わんようにとか、交通事故に遭わんようにとか、病気をせんようにというのではなくて、そう言う様な事柄を通して、御神意を悟らせて頂こう、悟ってくれよというのが神の願いなのです。
 そこに例えば祓うただけでは、一番初めの年には祓うただけでも、それこそもう奇跡中の奇跡と言う様な、おかげが合楽の大広前の関係のある人達の上に、現れたが、その翌年は、例えばいやびまつらなければという、その心を育てて下さろうとする働きが、二年目に始まっておる。もちろんこの心はですね、当合楽の続く限り同んなし事だと思うんです私。この心をいよいよ求めて行く、この心をいよいよ追求して行くと、いうことなんですよね信心とは。
 今私装束で汗びっしょりでありましたから、私の部屋がルームクーラーが入っておりますから、あちらで汗を拭いて着替えておりました。そしたら先客があるんです。あのう私共の娘達が二人あそこで涼しかけんで、着替えをしてとるんです。それで私も着替えをさせて頂きながら、愛子にここでお花を受け賜っておりますから、あのお花の事について、今度のお花は誰が生けたかと私が言うんですよ。お父さん好みというか私の好みというのはね、あぁいう大振りに入れたらねいけんのだと。
 花は立派に出来っとてもね、こちら小さい方の所に置くのですから、あぁいう大振りに入れたら、私は目が覚めて見るたんべんに大き過ぎる、大き過ぎるとこう不平の心が起きて来るんだと。見るたんべんに。それはね愛子さん沢山の信者さんのおかげの上までも関わる来とだよと私は申しました。はぁいいなぁ気持ちがいいなぁ。よう活けちゃるなぁと私が思うのとですね、これは大きいなぁいけないなぁどうして度々俺が言うのに、どうして分からんのじゃろうとこう思う心はね、どうもう大変な違いになって来るです。
 私が気持ち良う助かっておるということは、沢山のこの信者の助かりに関わりがある事なんです。そんなに大した事じゃから、お父さんの意を大事にしてくれよっと、今も私は申して来ました。こんな事とか嫌だなぁと思う心が、先程から申しますようにですね、我が心の鬼が我が身を責めると仰る。我が身の心の中のその思い方がです、もう既に鬼から責めさいなまれるような結果になって来る。先程怖い物ということについて、おやじが段々怖くなくなって来たという。
 現代のま世相がそうなんですけれどもね、私はやっぱりおやじが怖うなるおかげを頂かなければ駄目だ。こげん事しとったらおやじが怒るだろうと、昔の人はいかにもそれが良心的であった。ところが最近ではですこんくらいの事は当たり前。おやじがぐずぐず言う時にゃ、却っておやじに言うて聞かするというくらいな、今時のお父さんそんな事言うとったら通らんばいというくらいで、却ってお説教聞かんようことになる。私はその辺の所がですね、私はおかげを頂かなければいけない。
 私は今日の御祈念中にあの正月の十四日にですかね、あのう私だん子供の時にゃ、そのうもぐらのえんしゅつをやりました。もぐらが潜らんように竹で縄をくくってもらって、それをねぎたでいけんたで、14日もぐらにいえんして頂いたんです朝早く。今時あんな事はしませんよね。私はその事をですねあのう初代の親先生がおられた時分に、お話しば聞いた事がある。金光様の信心するものは、あげな事はしちゃいかんといわっしゃった。そげん大地を叩く様な事をしたらでけん。
 そのようなことせんでも神様にちゃぁんとお願いすりゃ、もぐらでももぐらん事になる。だから叩く事はやめらんばいかんばい、してからそげんなそのう事を頂いてから以来私もしませんでした。知らん者はやっぱりやってましたけれどもね。その時の事を頂くんですよ。大地を叩く。大地を叩いてです例えば親を困らせてです、親を叩いてです、それがひとつの心に引っ掛からんという事になったら、もうそれこそ私はもう信心が地に落ちてしまっておる姿だと思うんです。
 親が心配する事は分かっておるばってんから、親に心配させる事やら、親が痛い苦しい思いをする事をです、平気でもししょる人達が多くなって来るとするならば、これはもういよいよ世も末という私は気が致します。ましてや天地の親神様を拝まして頂く私共がです、大地を叩くような事をしてはならん。その大地を叩く様な所から、これは未だ良心がある。大地を叩く事によって自分の心の呵責が生まれて来る。だから心の呵責ということもですねそれは良心的だ。
 もう否良心的になりますとですね、もうこれくらいの事たぁ当たり前になってしまう。だからそれよりも私はまだ良いと思うね。大地を叩いて平気で、いうならば先程若先生がここで奉続しましたでしょう。御神誡ね、御神誡のひとつひとつをですよ、私共の心の中に頂かせてもろうて、こういう考え方こういう有り方ではいけないぞと、幼少の時を忘れて親に不幸の事と仰るような言葉がね。小さい時の事を忘れて親に不幸のこと。その不幸をしておっても不幸を不幸と感じんようになったらもう駄目だ。
 ところが感じる事は、もう自分の心に鬼が責める。ならもう一層考えんがよかと言う様な結果すらなって来る訳」です。これはけれども天網恢恢疎にして漏らさずという理があるように。例えば悪い事をしても平気だ。例えば石川五右衛門のござったら、もう平気だ。だから悪が栄えます天網恢恢疎にして漏らさずでありますから、いつかは神様はそれを願っておられますから、必ず一回はやられる。だから広い信心である事は案外おかげは受けますけれども、信心の無い姿はまあそうです。
 いかにどんなに繁盛しよっても栄えよってもですね、その繁盛の仕方がです、唯儲けさえすれば良いと言う様な生き方で儲けたのは必ずやられます。天地の裏付けが無い神様の喜びが伴うていない。神様にも喜んで頂いてね神様の心に適う儲け方でなければいけないと言う事なんですね。そこで私はそのう思うんですがね。今あるを嬉しいといやび奉ると言う事がです、中々実際容易な事ではないのですけれども、その反対の心例えば天地書付でなんか「生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり」と仰る。
 だから和賀心を頂けばおかげを頂く事は分かっておるけれども、そのなかなか和賀心になる事は難しい。というてそれは寝言だにする事ではない。和賀心にならせて頂く道。和らぎ喜ぶ心にならせて頂く道があるならば、その道を会得させてもらい、それを私は自分の信心の上に頂き、自分の信心として喜びのおかげを頂かなければならんとこう思う。合楽の方達の場合はですね、もうその辺の所を神様は求めてござるということを、私は二、三日前から感じたんですけれども。
 ちょうど二十八日の竹葉会がここで開かれました。若い嫁さんばっかりの集い。本当に高橋さん所の奥さんが、今朝方からその御夢を頂いたと言うてお届けなさった。それがどう言う様なお知らせであったかというとですね、まぁこれを分かり易く申しますとですね数字の1、2、3、4、というこのう数字であるですね。この4という字を、死と読んだら死になる。四に頂いたらおかげになるという事なんです。いま私共が願わせてもらうのはもう最高の信心をさせてもろうて、最高のおかげを頂こうとね。
 それはあのう競馬馬のお知らせを頂いた。競馬馬といえば、馬でも最高の馬ということでしょう。馬ということはここで御理解頂きますと卑しい心だと仰る。けれども卑しい心とか欲望という欲望もです、段々その純度が過して来るね。段々それが信心でおかげを頂いてまいりますとです、その欲望も神様が起こしなさる程しの、欲望が持てれるようになって来る。金が欲しいとか物が欲しいとかいうことだけではなくて、神様の願いが自分の願いとして頂きたいと言う様な、信心が頂けて来る様になるです。
 だから最高の欲望ということになる。何時もこうしてお祭りがございますと、赤、青の魚がね鯛と鰤やらが。ところがどうしても昨日はその鰤が手に入らなかったから、先生もう仕方がないから鯖を買うて来ました。鯖ではいかんのぉそりゃもう、こもうしていかんのぉ言やぁ思いましたけれどもけれども、けれどもよくよく考えてみたら、やはり今日は鯖でなければいけんじゃった感じがするんです。いわゆる競馬馬。佐馬とは人偏左を書く、いわゆる佐と言うのは合楽的ということでしょう。
 その佐馬のおかげ合楽で願っておるおかげ、合楽の神様が皆さんに願ってござるようなおかげ、そういうおかげを皆さんどうでも受けて欲しい。受けてくれよと言う事だというふうに、今日私はそれを頂きました。ですからならここの神様が皆さんおかげを受けてくれよと、願ごうてござるようなおかげとはどういうことかと。それは皆が一人一人、億万長者になってもらわなければならない。家族円満のおかげを頂かなければならない。為にはその基礎になるもの。
 先ずそのおかげを受けられる信心を頂いて下さいということなんです。その信心とはならどういうことかということですね。この方の道は喜びで開ける道だと仰る様に、一切を喜びで受けさせて頂くという信心。一切を雅び奉らせて頂く心。そういう心を頂かせて頂く事、焦点をおいて信心をさせてもらう。今日のようなお天気の上にでもそうです。あいにくなお湿りと言やぁもうあいにくになってしまう。おかげで修行が出来るといやぁ、それはもう神様がもう修行と受けて下さる。
 はぁこれで今迄終わらなかった田も、これで終わるだろうということも、色々にこのお湿りひとつでも、有り難い事に受けていけれる筈なんです。そこんところが高橋さんの奥さんが言われておられる四を「死」と読んだら死になるんだ、と言う程しにです人間の幸不幸というものは微妙なんです。ですからそれを例えば「四」んで受ければおかげになる。良いということになる。もうだから高橋さんが先に申しましたが、もう高橋さんあなたの信心ならそういう実に微妙なところにあるんだと。
 もうそこまで高度な所になっているんだと、もうちょこっと自分の思い方ひとつで、おかげにもなりゃ、自分の思い方ひとつでおかげにもならないという程しに、いわば信心が高度なものになっておるのですのですから、いよいよ全ての事をです有り難い、喜ばしいという心で受けさせてもらう稽古しなければいけない。嘘にでも良いからそうである。神様の御守護を例えばこうして受け通しに受けておりましてもです。私共のその受け方が間違っておりますとですおかげの方が間違ってくる。
 只今夏期信行で。五十日間の信行期間に入っております。毎日一時で一時からここに一杯の方達が集まって、もう一生懸命に御祈念を致します。その御祈念の後に一口御神訓を順々にちょうど去年頂きましたように、今年もそれを頂いておる。今日はちょうどお祭りが一時からですから、その御祈念が出来ませんから、このお祭りに合わせて頂こうと思うて、昨日の続きのところを頂かせてもろうたら、「人の身が大事かわが身が大事か、人もわが身もみな人」という御神訓であった。
 「人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみんな人」だということ、ははぁちょうど今日の大祓にはちょうど相応しい。私はおかげであるなということである。私はここんところの御教えというものが、本当に身について参りましたらです、例えば自動車を運転させて頂くにもです、人の身になって自分が災難を起こすということは、人にまで迷惑をかけるんだ。相手だけに怪我させてから、自分ばどうもなかったけんおかげ頂いたと言う事なんてんでけん。
 本当に痛かろう難儀なこと自分が作った。私しゃここんところが分からせて頂いたらです、人もわが身も同んなしという思い方が出来たら、私は飲酒運転なんかはしません。いうならばスピードを出し過ぎたりして、人に迷惑をかけることは出来ない。人間を自分と同んなじに大事にさせて貰うという思想、そういう観点の元にです私は自動車に乗られる方達がです、そこんところの御神訓が分かったら、おかげを受けるだろうとこう思うです。「人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身も皆人」なのである。
 そういう例えば心掛けにならせて頂くということがです、私しゃ今年いわば交通事故から御守護を受けさして頂けれる焦点になるものだと、今日私は思います。もちろん私は申します様にね。「祓わんよりよか」と言う甘木の先生が仰ったと言う、そういうおかげを踏んまえてそして去年頂いた、今あるを嬉しといやびまつるという心、嘘でもええ思い出して金光様有り難うございます、ただ今からどこどこにやらせて頂きますと言う位なゆとりを持って、本当の喜びの涌かない所をお詫びさせて貰う位な気持ちでです。
 しかもその上にです、人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人と言う様な心の状態で、そこに何時も焦点を置いておかげを蒙っていかれたら、今年はいわゆる交通事故と言った様な、忌まわしい事のないおかげを受けられる事を、私は進言致します。ここんところひとつしっかりと、今年は皆さんおかげを頂いて欲しいと思うですね。今日もまた今年もどうぞ病気災難、または交通事故と言った様な事の中から、お守り頂きたいという願いを立てて、今日のお祭りが奉仕されました。
 ですから今日一日をというより、明日また今日もどうぞそういう祈りに願いを立てねばいけません。もう一遍頼んでおるからというだけではいけんのです。それは今日私は朝お届けさせてもらいよる時に、熱心に参って来るご婦人方があります。それでその方が息子さんにですね、あのうあんたが乗っとる車はナンバー何番じゃったか。今日は大祓式だからお願いせないかんからと言うたら、お母さんそんな事より、日本中の車の事お願いしてくれと言うた。
 いかにもこの神様は日本国中どころでは無い。世界中の車を知らん顔をしている神様ごたると思うとる。また私の祈りの上においてもです、もう本当に最近はもう世界中のですね、各国々のまた各その人種はどういう人達がおるか知りもしませんけれども、世界のいわば国々の隅々の人達までがですね、例えば様々な難儀の要素の中から立ち直り、様々な難儀の中から立ち行くおかげをです、各国が各人がです頂かせて頂く事を、私は本当に切実に願っております。
 またそれを天地の親神様は願って下さる事のありません。と言う事は信心はせんでも、世界の氏子におかげをやってあると仰せられるんですから、おかげはやってあるのですけれどもです、先程申しますようにね、神様のその御守護から漏れるような心の状態であったりしては、仕方がないでしょうが。神様の願いは一様にあっておる、なら私の祈り願いでもです、それこそ日本国中どころか世界中のことを願っておるのですけれどもです、ですからそういう願いは勿論ですけれども。
 信心させて頂く者が本当に、例えば信心が無かってもです縋らなければおられない、願わなければおられないと言う、現在の様相の中からです、そこん所のおかげを受けたいと願う。願う事がです又どうぞ今日も信心にならせて下さい。いうなら和らぎ賀ぶ心にならせて下さい。又は雅の心お礼の心を何時も心の中に持たせて頂きたいという願い。そういう願いを立てて願いを持っていくところにです、神様の願いを頂く。氏子の願いによって心の状態によっておかげをキャッチする事が出来るだけの事。
 ただ金光様の信者だけに留まらずに、誰れかれでもお願いしてくれればいいじゃないか。それが神様じゃあないか。なんてことはこれは大変な私は横着な考え方だと思うですんね。神様はもう例えばそういう氏子の上にでもお守り下さってあるんです。けれどもそれを頂く心を作らせて下さろうというのが信心です。宗教なのです。そこに教えがあるのです。ですからその教えを頂いて、私共はその教えが血や肉になって、日々神恩報謝の生活が出来れる。どのような中にあっても喜ばして頂ける心という心をです。
 いよいよ頂いていかなければならんと言う事が分かります。今年の例えばこの交通安全悪病予防と言った様な事つきましてのこのお祭りもです、今日このお祭りしてもろうたからそれは祓わんでも良いと言う、おかげは絶対なのですけれども、それと同時に雅の心を作らせてもらい、いよいよ自分自信の心の中にです、神心を高めていってです、人もわが身も皆同じと言う様な考え方、人の身も大事であり、わが身も大事である。人もわが身も皆人であるという見地に立っての信心。
 そういう信心を神様はこよなく喜んで下さる。そこに私達が喜ばなければおれないぼどしのおかげが、そこから頂けるというものがお道の信心のおかげのシステムなのです。そういう決まりなのです。ですからそこのところを頂いて行かなければ、その変りに限りがないのです。だからおかげも勿論限りがないおかげに繋がって行く事なんです。ですから今朝からもう私は皆さんに申しましたが、信心はピンからキリまでですから、ならここまで行かなければおかげは受けられんというのじゃなくてです。
 ただ頼んだだけ願っただけでもおかげが受けられる時代からですね、段々ここんところの信心の見解を求めて参りまして、信心の階段を一段一段進めて参りまして、そして信心をしなければ頂けない、御神徳を身に受けて、本当に信心を頂かなければ、真実この世の幸せというものはあり得ないんだと、分かるところまでおかげを頂かせてもらう。今朝私皆さんに申しましたがね。
 私の信心の根底になるもの、それはですねどういうことかと言うとね、神様の御心に添いたい添いたいという心。神様の心に添わせて頂きたいという念願、これに何時も燃えておるんだとね。それは神様が分からせて頂けば頂く程にですね、神様が自分の心を分からせようとするのではなくて、神様のお心を分からせて頂きたい。そして神様の御心に添いまつりたいという念願に燃えて、それがひとつのまぁ信心という。
 ここのこのうレベルが揃うた訳です。この思いだけは皆んなが持たなければいけん。神様の御心に添いて奉る行き方になりたい。そしてそれからそれぞれの願いが違う。信心の段階も違う。そしてその同じ願いについてもです、ただ我情我欲の願いだけではなくて、神様が願われるような信心。神様が願っておられる様な神の願いを自分の願いとする程しの願いにです、進んでいかなければならんということなんです。
 今日はその様な事を申しましたつもりですが。どうぞ今申しました今日の信行期間に、今日の日に当たっておりますちょうどそこに当たっております、その事をですね、今年の信心のひとつ焦点ともさせて頂いて、おかげを頂かなければなりません。もう一遍お唱えさせて頂きますとね「人の身が大事か、わが身が大事か、人もわが身もみな人」という見地に立っての、私は生活態度でなければならんというのでございます。
   どうぞ。